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失語症講習会レポート3「どんな障害を持っていても生きられる社会に」

レポート第3弾です。

失語症者向け意思疎通支援者養成講習会で感じたのは、このような障害を持っている人でも、暮らしやすい、生きやすい社会にしていくことの重要性です。少しずつしかできない人は少しずつ、そして出来る人は大胆に、社会を良くしていくことで、失語症に限らず、「あらゆる障害者が生きやすい国」になるはずです。

それには、まず、社会資源が不足しているので、その解決が大切だと思います。特に若い障害者に対する福祉サービスが非常に少ないのです。そして逆に、40才以上の脳血管障害の人は、原則介護保険を優先されますから、デイサービスやデイケアを利用することになります。これは本当にしんどいと下川さんも言っていました。ついこの間まで会社社長だった人でも、認知症のお年寄りと一緒に風船ゲームをする自分が本当につらかったといっています。

脳を怪我した人は、ほら、帰れるじゃない?

さきほど、認知症のお年寄りと一緒に……というくだりがありましたが、この言い方は逆の立場でもされているということを最近知りました。認知症の人たちにとっても、脳損傷患者の人たちと一緒にされるのはどうやら歓迎ではないのです。なんか悲しい……。こうした弱い者同士がどちらがマシかを比べる状態って、本当に良くないと思います。でもお互い、十分なサービスが受けられず、余裕がないのです。だから「あんたらはいいよね」になってしまう。私は、認知症の人のことを悪く言っているわけではありません。相応しくないサービスに、双方が押し込められているという状態が良くないのではないか?ということなのです。

そして、失語症の人は、完治は難しいのですが、リハビリで回復していくのだそう。そこがだんだんと助けが必要になる認知症と違うところなのですが、まずはその機会を得られるサービスの充実が求められます。

さらに、情報保障も必要でしょう。テレビ、ラジオ、新聞などでの工夫、行政や学校、地域などでの工夫も急務です。最近は災害時に状況の分からない障害者が被害に遭うという点にも注目すべきです。

そして、人権!

失語症は、知的機能、状況判断、社会的礼節、適切な感情表現、時間・場所・できごとの記憶は、病前と同じように保たれます。ですから、赤ちゃん言葉で話しかけるような、子ども扱いや、逆に何でもしてあげてお年寄りのように扱うことを嫌がります。自分の身に置き換えれば分かることですよね。つまり本人を無視し、誰かが代理で何もかもしてしまうことは、本人を著しく傷つけるのだそうです。

関先生のお話の中では、意味の分からない話に対し、自分が取り残されないよう、「相づち」を上手に打つ人もいるのだそう。「うんうん」「へー」「そうなんだ」そうやって、知らない会話に相づちを打って、自分が失語症であることを隠す人もいるのだとか。悲しいじゃないですか。涙が出てしまいました。

見えない障害

さらに、麻痺の強い人はのぞき、外見では障害者と判断されにくいので、むしろ障害自体が理解されにくいことが大きな問題です。でもこれも言葉で言ってしまうと、外見で障害者と判断される障害はいいのか?という話に聞こえてしまうかもしれませんが、それも違います。ただ、この「見えない障害」というのは、失語症の他にも、高次脳機能障害や、発達障害なども含まれ、深刻な状況を作り出しているのです。

障害者に寄り添った工夫をすれば、全体が底上げされる

社会から孤立し、自分に自信が持てなくなるのは、失語症に限らず、現代の若者たち共通の問題のように思います。その結果、家族も負担が大きくなるのに、社会保障・社会資源が不十分です。これは失語症に限ったことではありません。しかし、弱いところから工夫を重ねると全体が良くなります。このことは、障害者雇用に積極的な会社が、障害者に寄り添った工夫をすることで、結果、誰でも働きやすい職場環境ができたという例からも見て取れると思います。

失語症者向け意思疎通支援者養成講習会、第2回は5月18日。私に出来ることは、こうやってかみ砕いてレポートにすること。皆さんの心に届きますように。